おしりふき

汚い話で恐縮なのだが、大抵の人は、うんちをした後にお尻をふくのは、
当然自分ですることだと思っているだろう。

だが、食べてる時に汚したテーブル、拭くのは誰?
自分で使った湯のみ、洗うのは誰?
着た服、洗うのは誰?

できるのに自分でしてない人、多くないでしょうか。


私は仕事もしているが、家族分の家事も全部やっている。
不満だ。不満だけれども、役割だと割り切ることにしよう。

しかし、食後の食器は流しに運んで、水につけて欲しい。
水につけないと、お尻を拭いていないのと同じだと思う。
(汚くてすみません)
洗って欲しい洗濯物は洗濯機に入れておいて欲しい。
脱ぎっぱなしだと、うんちを流してないのと同じだと思う。
(汚くてすみません)
放置されたお皿や服を指さして、これはうんちと同じなんだ!
といつか言いたいと思っているが、なかなか言えない。
(なのに、書いていてすみません)


こうしてみると、尻拭いという言葉は、なかなかいい言葉だと思う。
他人の失敗などの後始末をするという意味だけれど、
当人がやるべき事を、やってあげている感じが伝わってくる。

尻拭いかそうでないか、という線引きは結構やっかいだ。
どこまでが「当然やること」なのか、という基準には、
人によって、考えにばらつきがあり、軋轢を生む。

自分はどこまで頑張らなくてはいけないのか、我慢しなくてはいけないのか。
どこから社会で担ってくれるのか。
当然の権利と、甘えの境目。

子育ては、親や親戚の面倒は、どこまで負担しなくてはいけないのか。
復興は?


出来ることは自分でやる。ちょっと頑張ってやる。
でも出来る範囲は以外に狭くて、自分の子どもを育てることすら一人ではできない。
その負担を、社会で、つまりはみんなで少しずつする。
それが社会保障だ。

生活保護を受けても、子どもを保育所に預けても、
その権利を主張しても、批判されることは何もないと思う。