感情論です

原子力発電全廃を主張すると、それは感情論だと言われるだろう。
確かに感情論だ。悪いか。

しかし世の中の大部分は、感情で動いているのではないだろうか。
好きか嫌いか、イイかイヤか、快か不快か、というのは多くのことを決定する
理由になる。常識や社会のルール、法律でさえも、もとを糺せば
「多数の人の感情が落ち着くところ」が基準になっているのではないかと思う。
多数の人がされたらイヤなことは、やっては駄目というルールになっている
ということだ。
多くの人が自分の大事なものと盗られたらイヤだから、窃盗は罪というように。


私は、基本的に死刑制度には反対だ。

なぜ死刑に反対なのかと聞かれれば、人が人を殺すということが嫌だから、である。
殺人事件も嫌なら、死刑も嫌なのである。
これだけでは説得もできないし、制度を変えることは難しいかもしれない。
でもこれが、借り物ではない、私の感情である。

一度反対すると決めたら、本を読み、ネットを探せば、いくらでも反対する理由や理屈が見つかる。
ゲーム上で武器を買うみたいに、この賛成派の意見にはこの反対派の理論を突きつければいいよという、理論の武器が見つかる。理論的に武装して行くわけだ。
それは敵側も一緒で、反対派の意見を論破するための理屈がいくらでも用意できる。
結局いくら意見を戦わせても、お互いの意見は変わらない。
戦わせれば戦わすほど、意固地になっていく。

こんなふうに受け売りの理屈を並べ立てるくらいなら、
自分の感情を理由にしてもよくないか。
だから私は感情論を述べるのだ。


この感情を押し殺してしまうのが、利害関係である。
原発反対と推進は、感情と利害関係との戦いとも言えるのではないだろうか。


私は、原発事故の悲惨さを見て、被害者の状況に胸を痛める。
そして原発脱却をめざすべきだと思っている。